ヘンナー・ヘンケル


ヘンナー・ヘンケル

ヘンナー・ヘンケル(Henner Henkel 1915年10月9日生)
 [ドイツ・テニス選手]


 ベルリン出身。ヘンナー・ヘンケルには、同じドイツ男子の先輩選手としてゴットフリート・フォン・クラムがいた。ヘンケルよりも6歳年上のフォン・クラムは1934年と1936年に全仏選手権で2勝を挙げたが、ウィンブルドン選手権では1935年から1937年の3年連続で準優勝に終わった人である。1937年の全仏選手権では後輩のヘンケルが活躍し、男子シングルス決勝でヘンリー・オースチン(イギリス)を6-1、6-4、6-3で破って初優勝した。男子ダブルスでもヘンケルとフォン・クラムがペアを組んで優勝し、ヘンケルはこの大会で単複2冠を獲得した。続くウィンブルドン選手権では、ヘンケルは男子シングルス準々決勝でフランク・パーカー(アメリカ)に敗れ、フォン・クラムとのダブルスでも準決勝でドン・バッジ&ジーン・マコ(ともにアメリカ)組に敗れた。4大大会年間最終戦の全米選手権男子ダブルス決勝で、ヘンケル&フォン・クラム組がバッジ&マコ組を6-4、7-5、6-4のストレートで下し、2人は1937年度の4大大会で男子ダブルス2冠を獲得した。

 この年に、ヘンケルはフォン・クラムと2人の女子選手とともに日本を訪れた。ドイツ選手の一行は大阪、東京、名古屋の3会場で「日独対抗戦」に出場し、甲子園コートで開かれた全日本テニス選手権にも出場した。当時の日本のエースだった山岸二郎が2人の挑戦を受け、シングルス準決勝でヘンケルは山岸に敗れたが、決勝でフォン・クラムが山岸に7-9、6-4、6-4、6-4の逆転勝利を収めた。ダブルスではヘンケルとフォン・クラムの組が、山岸と村上麗蔵(同じ慶應義塾大学の選手)の組に勝った。全日本テニス選手権のタイトルを外国選手に奪われることは、当時の日本では屈辱とみなされていたが、ヘンケルとフォン・クラムは昭和初期の日本で世界のテニスを紹介した名選手の中に数えられる。

 ドイツはアドルフ・ヒトラーの支配のもと、1939年から第二次世界大戦に突入する。ヘンケルもヒトラーの軍隊に徴兵され、1942年夏から始まったソ連軍とドイツ軍による「スターリングラード攻防戦」にて、1943年1月13日に27歳の若さで戦死した。ヘンケルの1937年全仏選手権優勝は今なお、ドイツ人の男子テニス選手としては最後の記録である(1996年の全仏オープン男子シングルス決勝で、ミヒャエル・シュティヒはヘンケル以来59年ぶりのドイツ人男子による優勝のチャンスを逃した)。

 1943年1月13日死去(享年27)


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