山中貞雄


山中貞雄

山中貞雄(やまなかさだお 1909年11月8日生)
 [映画監督/脚本家]


 京都府生まれ。1922年、旧制・京都市立第一商業学校に入学、同級生にのちに松竹下加茂撮影所の脚本家となり「鳴滝組」の仲間となる藤井滋司、1年先輩に「日本映画の父」こと牧野省三の長男・マキノ正博(のちのマキノ雅弘)がいた。山中自身も少年時より「カツキチ(活動写真きちがいの略)」と呼ばれるほど大の映画好きであった。

 1927年、一商の先輩であるマキノ正博を頼って、マキノ御室撮影所へ入社する。城戸品郎監督の助監督に付くが動きが悪く、ロケの届け出専門だった。1928年、山中を持て余したマキノは脚本家兼助監督として、嵐寛寿郎の第一次嵐寛寿郎プロダクションに推薦、移籍させる。同年夏、第一次寛プロがスポンサーに逃げられ困窮。それでも山中は先頭に立ってライトを担ぎ、資金稼ぎのために嵐寛寿郎のプロマイドを大阪まで街頭売りに出る毎日だった。が、やがて製作はストップ。また五社協定により自主配給の道も絶たれ、独立プロは失敗。寛プロは解散となった。

 1929年2月、脚本家デビューとなる、前年に寛プロで制作した『鬼神の血煙』(城戸品郎監督)が公開される。この年3月1日、嵐寛寿郎が東亜キネマに招かれ映画復帰すると、旧・寛プロのメンバーも参集、山中もチーフ助監督としてこれに参加。この東亜での『鞍馬天狗 前後篇』、続いて『大利根の殺陣』、『明暦風流陣』、『右門一番手柄・南蛮幽霊』ほか、以降、主幹脚本家として活躍。

 1932年、「むっつり右門」シリーズの脚本で山中の真価を確信した嵐寛寿郎は、長谷川伸の戯曲を脚色した『磯の源太・抱寝の長脇差』で監督に抜擢。この監督第一回作品が映画評論家岸松雄の目にとまり、「寛プロには場違いな天才」と大絶賛されたことで注目が集まり、その結果、処女作にしてその年のベストテンに名を連ねる。『磯の源太』以降、山中は22歳の若さでインテリ評論層から「日本映画界の巨匠」扱いされたものの、それ以前の寛プロでの山中の仕事は変わらず評論界からは無視され続けた。続く超大作『小笠原壱岐守』が興行4日で打ち切りという記録的な不入り。同年、シリーズ第10作『天狗廻状 前篇』を最後に、第二次寛プロから日活京都撮影所へ引き抜き移籍。以降、若き天才監督の名前をほしいままに、『盤嶽の一生』、『街の入墨者』を発表。

 1934年からは、それぞれが所属する会社の枠組を越え、山中、稲垣浩、滝沢英輔、土肥正幹、三村伸太郎、藤井滋司、萩原遼、八尋不二の8名の俊才とシナリオ集団「鳴滝組」を結成、「梶原金八」の共同ペンネームで22作を発表した。時代劇映画に大きな革新を生み、批評家以上に観衆からも大きな支持を得ていた。交友関係も広く、「鳴滝組」の面々のほか、伊藤大輔や伊丹万作ら京都の映画人はもとより、小津安二郎、清水宏など東京在住の映画人とも、幾度となく盃を交えた。

 1937年、東京に移り、P.C.L.映画製作所で発表した前進座がユニット出演した名作『人情紙風船』を製作、封切り当日に召集令状が届き、平安神宮で壮行会が行われ神戸港から中国に出征した。中島今朝吾中将率いる北支那方面第2軍第16師団歩兵第9連隊第1大隊第3小隊に編入し、第2分隊長として、12月には南京攻略戦に参加した。

 その後、中国各地を転戦。翌1938年9月17日、中国河南省開封市の「北支開封野戦病院」で赤痢により戦病死した。

 5年間の監督生活で発表した監督作品は、全26本(応援監督2本含む)であるが、ほとんどのフィルム原版が紛失、もしくは戦災で焼失したため、まとまった作品として現存するのは『丹下左膳余話 百萬両の壺』、『河内山宗俊』、『人情紙風船』の3作品のみである。ただ、これらも戦後公開版のためオリジナルの尺・編集であるかどうかは定かではない。『丹下左膳余話 百萬両の壺』は連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の検閲によってチャンバラ場面が削除されたと考えられている。

 1938年9月17日死去(享年28)


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