難波康子



難波康子(なんばやすこ 1949年2月7日生)
 [登山家]


 東京都出身。早稲田大学文学部に入学。早稲田大学在学中から同好会で登山に親しむ。卒業後はインド連合通信に勤務。1974年、航空貨物会社フライング・タイガー・ラインに入社。大学卒業後も登山を続け、田中文男、長谷川恒男、加藤保男、和田昌平等の知己を得る。1980年加藤保男のガイドによりモンブランに登頂。その後、加藤保男は1982年にエベレスト冬季登頂を果たしながら遭難死亡してしまう。その加藤保男を記念して、康子はエベレストクラブを設立、会員数は1986年当時604名に上った。1987年エベレストクラブで出会った難波賢一と結婚。会社勤務の傍ら、各大陸の最高峰に挑戦し続け、1993年ヴィンソン・マシフに登頂、六大陸最高峰を制覇。

 1996年、ニュージーランドのアドベンチャー・コンサルタンツ社のエベレスト商業公募隊に65000ドルを支払い参加した。5月10日、アドベンチャー・コンサルタンツ隊は、アメリカからのマウンテン・マッドネス社の商業公募隊と同時にエベレスト山頂を目指し、難波は登頂に成功、日本人女性で2人目のエベレスト登頂者、および日本人で2人目の七大陸最高峰登頂者となった(ただし、後述の通り生きて下山することは叶わなかった。「登頂とは生きて帰ってこそ意味がある行為」という考えをもとにすれば、難波のエベレスト登頂は失敗に終わった)。しかし、引率者自らが事前に指示していた登頂の制限時間を守らなかったために、多数の参加者が下山途中に日没を迎え、吹雪に巻き込まれて遭難した。難波らのグループ11名は最終キャンプ地まで300mの地点に到達していたが猛吹雪のため立ち往生。10名は何とか生還を果たしたが、難波は翌5月11日朝にはまだ生存していたもののその後に凍死した。このときアドベンチャー・コンサルタンツ隊、マウンテン・マッドネス隊の隊長も、それぞれ別の場所で遭難死した(エベレスト大量遭難)。難波の遺体は翌年シェルパらによって回収され、遺族の立会の元、ベースキャンプで荼毘に付された。

 多くの著名登山家はスポンサーを獲得することで膨大な資金を調達し、登頂後にメディアへの露出を高めて、さらなるスポンサーを獲得し、次の大きな挑戦に繋げてきた。それに対し難波は費用のすべてを自分の収入から支払った。これは1990年代後半頃に始まった商業公募隊という形式により、費用・手続面でのハードルが格段に下がったという背景もある。スポンサーを一切つけなかった難波はメディアへの露出が無く、他の登山家と比較するとまったくの無名な登山家であった。ビジネスパーソンとしてのキャリアを中断させること無く、自身の収入と休暇だけで七大大陸最高峰登頂を成し遂げたという面では、新しいタイプの登山家であった。遠征で長期休暇を取得する前には、同僚に負担をかけないように土日まで働いていた。トレーニングのために仕事を休むというわけにはいかないため、高層ビルの階段を駆け登ったり、自宅から2時間ほどで行ける丹沢の大山を走って登ったり、ときには早朝く家を出て八ヶ岳を登り、その日のうちに帰ってくるなどということもやっていた。

 難波の参加した隊の遭難は、1997年にロバート・マーコウィッツ監督の『エベレスト 死の彷徨』で映画化された。

 1996年5月11日死去(享年47)


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