読みものヽ(´∀`)

(8)『母の想い出』Dの下

 ある時、父は家が困窮していたので、当時好景気を呈していた筑豊の炭鉱に行って働きたいと言い出した。すると母は、
 「炭鉱に行くなら、あなた一人で行ってください。私はどうしても、この甘木の御広前のそばを離れたくありません」
 と言ったので、父も炭鉱行きを思い止まったとのことである。
 後になったが、明治三十六年出生の長女クニエは、翌三十七年一月一日、はかない命を閉じており、さらに、大正二年二月十五日には、次女春子が齢四才でふとした風邪がもとでジフテリアに罹り、短い命を断っている。母は愛する者を失うことの悲しみを、身をもって味わったのである。
 かかる中にも、恩師の厚き御取次によって、傾いていた家運も次第に立ち直らせていただいたが、その頃から、再び父の遊蕩が始まり、せっかく手に入れさせていただいた田畑もまた人手に渡るようなことになったが、母はそれを神様よりの御試練と受けて、信心の稽古に励み、夜食べる米がなくても、ご理解に耳を傾けお結界の前を動こうとしなかった。
 ある時父は、友人から
 「矢野君、君は家内を拝まんといかんぞ。家内のおかげで今のような裕福な家になったのだから」と言われた。父は、
 「そうだ、俺はいつも心の中では、家内を拝んでいる」と、答えたとのことである。
 一方、母の方では、
 「私は主人を拝んでおります。主人が若いときに放蕩をついてくれたおかげで、この尊い親神様にめぐり合せていただいたのですから」と、夫婦が心の中では、互いに拝み会っての日常生活であったのである。
 兄の少年時代は、いわゆるどん底生活であった。農家であって米がない。毎日一日分の唐米を買いにやらされたとのことである。ある日のこと、米を買っての帰り、石につまずいて転んだはずみに、唐米が道いっぱいに散乱した。
 通りがかりの人が、それを見て笑われた。兄は情けない思いで泣いて帰ってきた。母も切ない思いをしたことであろう。
 また、村で秋に催されていた野芝居とか、種々の興行には、裕福な家の人が上等の席を取り、貧しい家は隅の方の末席であった。
 当時は、差別待遇がはなはだしかったのである。
 父も再度の不行状をお詫びし、私(政美)の少年時代には、兄のような体験はない。(兄と九つの年齢差がある)
 以上のほかに、いろいろのでき事があったと思うが、聞き覚えの一端を記させていただきました。
(続きへ)

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