それは、 「あんたが商売か何かであれば、ここでは思うように行かないから、他の所に代わるということもよかろうが、お道の御用というものはそんなものではなかろうと思う。あんたは甘木を出る時、加治木の土になしていただくという決心で行ったのではなかったのですか。その決心はどうしました。加治木で打って鳴らぬ太鼓は、どこで打っても鳴りません。それを鳴らそうと思えば、太鼓のバチが折れるまで、皮が破けるまで打たせていただけば、必ず鳴ります。あんたが一生かかって道が開けんでも良いではないね。あんたが死んだのち、後をついでくださる人が継ぎやすいようにしておけば、それで良いではないね」と、泪ながらに励ましてくれた。 また、そのとき入浴中であった父も、風呂から上がってきて、その事を聞くや、「あんたは加治木に出していただくときの決心を忘れたのか」と、強く諭してくれた。 そこに私の腹が決まった。 「それでは、お父さんお母さん、そんなにさせてもらいますから」と答えて家を出たが、道路まで母と義姉が見送ってくれた。 母は何度も後ろから、 「辛抱しなさい」「辛抱しなさい」と、繰り返し言った。 その時の父母の心、また、親先生、先代親奥様のみ心が、私には痛いほど感じられた。 やがて親教会へ帰り、親先生に、 「心得違いをしておりました。やはり加治木の土にならせていただきます」と申し上げると、親先生は、 「そうな、そりゃあ良かった」 と喜んでくださり、神様にお願い申し上げて下さった。私は往きの憂うつな思いとは打って変わって、明るい心で帰途につかせていただいた。荷物の整理までして、私の帰りを待ち受けていた家内も、帰った私から事の次第を聞き、「それでは、ここでおかげ頂きましょう」と臍を固めさせていただいたのであった。 それから私は、気持ちも新たに、元気にならせていただきました。それまでは自分の至らなさは知りつつも、「この土地が悪い」「ここの人柄が悪いから」とか、「前の先生が引き揚げられた後だから、御用が難しい」とか、他に対する不満の心があったが、それが大きな間違いであり、結局至らないのは他人ではなくて自分であると気付かせていただきました。 『何のこの土地が悪かろうはずがない、天地金乃神様のお土地だもの、人が悪かろうはずがない、天地金乃神様の可愛いみ氏子だもの。』と考えさせていただくようになり、それから、この土地の繁栄を願う気持ちになり、また、毎朝御祈念後に、前の教会長平島只助師の奥津城に、お参りさせていただくようになった。 それから徐々におかげを頂き、昭和三十五年十月に現在のお土地を求めさせていただいて、神様をご遷座申し上げたのである。 また布教当初の頃、このようなこともあった。 最初借らせていただいた家は、一軒建てではあったが、六坪ばかりの小さな家で、御神前、御結界が四畳半、お広前が四畳半であった。休ませていただく部屋(ゲイをおろして、二畳敷を自分で作らせていただく)などを作る費用として、実家に相談したことがある。 送金を依頼した手紙の返事に、 「送ったが良いか送らないが良いかを、御取次頂いたら、それは送らない方が本人のためと仰せになったから、送らないことにします」という意味のことを書いてきた。 一時は親を恨むような気が起きたが、送ってやりたいが送ってやれないという親の心の方が、どれほどつらかったであろうかと、後になってわからせていただいたような次第であった。 この他に挙ぐれば数限りなくあるが、あれやこれやと思わせていただくと、私どもの布教の上に、どれほどの父母の祈りがあり、特に母の思いが深かったことかと、ここに布教二十年記念大祭を迎え奉るに当たって、その当時のことが懐かしく思い起こされるのである。 (続きへ) [?] [?] <<重要なお知らせ>>@peps!・Chip!!をご利用頂き、ありがとうございます。
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