読みものヽ(´∀`)

(14)『母の想い出』Fの下

 祖母フイが、畏き神幸のまにまに、昭和十一年二月二十四日八十四歳の高齢をもって身退ったが、その後間もなく、かねてから願い続けていた改式祭を、安武恩師をお迎えして仕えていただき、ご先祖を真新しい八足にお祀りし、新しい三宝にお供え物をさせていただいた時の感激は、私も未だに脳裏に残っている。
 昭和十八年初冬、母は脳溢血で倒れ、三日三晩は意識不明の状態であった。当時、長崎県大村で徴用工(海軍建築部)として勤務中であった私のところにも「ハハキトクスグカエレ」の電報が来た。
 取るものも取りあえず、休暇を願って帰ったが、安武恩師の御取次によって私が帰郷させていただいた時には病状は好転し、意識も戻り、日増しにおかげ蒙らせていただいて、やがてすっかり全快させていただいた。齢六十二歳の時であった。
 三十三歳の大患以来、再度の命の接穂の大みかげを蒙らせていただいたのである。
 安武恩師は、かねてから私を道の御用にお引き立てくださる思し召しがあられたようである。折にふれてそのことを仰せくださったと、後日母が語っていた。母もまた、そのことを口には現わさないが、絶えず祈り続けていたようである。
 昭和二十二年四月三日、私ども夫婦は意を決して教会修行に上がらせていただくことになった。それより前に、恩師に夫婦そろって道の御用にお取り立ていただく決意についてお伺い申し上げた。
 二人して、応接間に固くなっていると、恩師が入っておいでになり、種々お話しになった中で、
 「世の中には種々の職業があるが、人も助かり、神様もお喜びくださり、自分も立ち行くことのできるお道の御用ほど尊いものはない。
 あなたはお母さんが三十三歳の折、九死一生の大患を救われたのちに生まれた者であって、今日までいろいろなおかげを頂いてきている。それを人に話してやるだけでも十分に御用ができる」と仰せになり、更に「決心しなさい」と加えて仰せられた。
 ここにおいて夫婦の心は決まったのである。
 同年五月三日に親教会を発たせていただいて、同期の吉田朝奐師(後、三河刈谷教会長)田中正利師(後、宮崎県高千穂教会長)古賀正人師(後、福岡県渡瀬教会長)と、私ども夫婦五名打ち揃って、金光教学院に入学させていただいた。
 この道の御用に夫婦揃ってお引き立て頂いたことが母にとってはたまらなく嬉しく、また、有り難い思いが一杯であったようである。
 当時は終戦直後のことであり、食糧はもとより、すべての物質の不足していた時期であったので、母は殆んど自分の着物を仕立て直して、私の羽織、袴などに仕立ててくれ、自分は普段着だけになっても、むしろそのことを喜んでいた。
 学院在学中、こんなことがあった。
 ある時、恩師が御本部参拝においでになった。随行が平田繁吉氏、井上宗房氏であったが、母が
 「親先生、これを車中で召し上がって下さい」
 と申して差し上げた節句のチマキを、恩師はそのまま
 「お母さんからだよ」
 と、私にお渡しくださった。私は、母がことづけてくれたものとばかり思い、甘木の修行生皆で、喜んで頂いた。
 その当時の食糧の有り難さは、今日では想像もつかないほどのものであった。
 母は絶えず祈り続けてくれた。
 無事学院を終えさせていただき、親教会の修行生としてお取り立てを頂いたが、母は私を「先生、先生」と呼び、ひとたびお道の御用に立たせていただいた以上、我子であって我子でなくみ手代りの者として尊ぶというおもいであった。
 心からお慕い申し、お縋り申し上げ、真に肉親の親以上に思わせていただいていた恩師が、昭和二十六年二月四日、み齢八十二歳で神上がりになられた。
 その時の、母の悲しみは言語に絶するものであった。
 ご先代(これからは恩師のことをご先代と申し上げます)の百日祭も済み、私ども夫婦は御神命のままに、鹿児島県加治木町に布教に出していただくことになり、父母は何くれとなく準備をしてくれたが、母は特に深い祈りをかけてくれていたようである。
(続きへ)

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