読みものヽ(´∀`)

(12)『母の想い出』Fの上

こうして、すでに無き一命を救われた母の信心生活は、新たな一歩を雄々しく踏み出したのである。
 一方、家にも身にも深い神幸を蒙らせていただいて、農作物の上にも年々豊作のおかげを頂き、特に養蚕の上には、他所では病蚕で失敗することがあっても、かつて一度もそんなことがなく、家族も皆健康で、二十数年間医師にかかったこともなかったほどである。
 大病全快後の母は、いっそう日参に励み、家族挙っての信心の稽古に勤しんだ。私も幼児の頃より少年時代には、毎晩母に連れられ、約二粁の道を教会にお引き寄せいただいた。
 母の日参は「せねばならぬ」というものではなくて、「せずにはおれぬ」お参りであった。
 また、母の信心の姿勢の中で、次のようなことがあったとのことである。
 明治の末から大正の初めにかけて、恩師には、桂大人の悲願を受けられて、大教会所御建築御用材献納の御用のため、たびたび木曽山中にお越しになっていたが、その現場から、「カネスグオクレ」「カネアルダケデンシンデオクレ」などの電報がひんぴんと関係教会に飛んでいた時のことである。
 あるとき「ヤノニソウダンセヨ」との意味の電報を頂いたとのことである。その由を承った母は、勿体ないと感激した。
 それは、「数多い信者の中には、相当の裕福な方々も多い。それに、私のような貧しい者に、そのようなご相談をしてくださるとは、何というありがたいことであろうか。よし、どうでもこうでも御用にお使いいただこう」こう決心した母は、さっそく親戚回りをして協力を依頼した。
 ところが、みな異口同音に「とてもできない」と断られた。ここにおいて、母は腹を決めたのである。「そうか、それだったらもう親戚には頼らない。私どもでおかげを頂かせていただこう」と、夫婦相談して四重町(現朝倉市内)にある藤井質屋(金融業を兼ねて)に借金の相談に行った。そして、家、屋敷、田地田畑を担保に借りることを得て、そのまま御用に立たせていただき、しかも「自分らのようなものをこのような御用にお使いくださるか」という、有り難い勿体ない思いで一杯であったのである。
 村中で最も貧困の底にあった矢野の家が、限りなき御神徳と安武恩師の御取次によって、次第に向上の一途をたどって行く状を見て、世間の人々も今更ながら、我が道の尊さに目をみはるのであった。
 母は、次第に田畑が増えるに従って、近所の人を手伝いに来てもらう折など、かつて他の話しはしたことがなく、口を開けば信心話しをさせていただいた。それは、「我が身我が家におかげを頂いていることを、ただ自分だけで持っておくのは勿体ない。どうか一人でも多くの人に助かっていただきたい」との思いからであったのである。
 従って、堤部落にも次々と入信の氏子が増え、朝参りなど、お互いに大きな声で誘い合いつつ、連れ立ってお参りさせていただくようになった。世間の人々も「矢野さんの家は信心があるから違う」と、一種の尊敬の念と信頼の眼で見て下さるようになったのである。
 これは戦争中(第二次世界大戦)のことであるが、姉千代子が主人に死別し、種々の事情のため四人の幼児をつれて実家に帰ってきて、数年間ともに暮らしたことがある。
 当時兄(一雄)にも、五人の子女に恵まれていて、家族は十五名の大所帯になった。未だ道理をわきまえない子どもたちは、睦まじい日ばかりでなく、従兄弟同士で激しくケンカなどすることがあったが、その中にあって母は、たえず仲を取り持って、丸く丸く治めるのであった。それで、それだけの大家族でありながら、一つも波風の立つこともなく、いつも助け合いつつ、朗らかな明るい毎日を過ごさせていただいたのである。  特に、母は主人を立てることをいつも心掛けておったようである。そこで子どもたちは父に願うことでも、一応母を通して相談するのが常であった。
 また、身体は小柄であったが、腹が座っているというか、ものに動じないしっかり者であった。それと、子どもに信心を伝えることを唯一の願いとし、どんな忙しい時でも神様のこととなると進んでおかげを頂いた。
 それは昭和二十八年六月二十五日・二十六日のことであった。九州一円は激しい集中豪雨に見舞われ、数多い水死者、家屋田畑の流失など、甚大な被害があったが、特に筑後川流域はいっそう激しかった。
(続きへ)

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