今回は、上演以前からの「覚書」を折々に遺したいと思います。 [記事を書く] [月別][コメント] [更新アラート] 2013年11月15日(金) 【皮膚感覚と6つの分岐】 近頃、「皮膚感覚」とよく耳にするのは、どうやら鈴木シロー氏と共に過ごした時間のせいばかりではないらしい。 要するに… 流行っているんだなw だったら、『ネエ、オジョウ』も「皮膚感覚」で説明すると話が早いのかもしれないが… 残念ながら、言葉がツルツルと響くだけで、どうも実感が伴わないようだ。 そもそも舞踏家なり、相応の訓練を体験した人以外には、なかなか伝わりにくいニュアンスである。 我々にとって、そして客席にとって確実なのは… 例えば玉葱がもたらす眼の痛みだったり、鍋がコトコトなる音だったりである。 あるいはギラギラと光る包丁である。 それを感じるのは、厳密には「皮膚感覚」とは違うものだ。 しかし、かなり似ていると思うのだ。 それは「心と言葉の隙間」であり、共有が可能なリアルだ。 そして、そこに忍ばせた『分岐』がもたらす「それぞれの景色」を僕は『マギカ』と名付けたい。 これは、そういう試みなのである。 少なくとも、確信的に用意した『分岐』が6つある。 勿論、これは『まどマギ』の主要キャラに揃えたものだが… 決して、6つに限るものではない。 それぞれの景色は、それぞれにあれかしw 01:11 コメント(0) [コメントを書く] 2013年11月07日(木) 【パチンコ=不条理劇の私論】 どうやら、「解釈を押しつけない」という不条理劇のルールが、そもそもスタッフの学生ちゃん達には「?」なのである(汗) 「それで芝居(娯楽)になるの?」てなところかw ところが、タオくん、いとうちゃん等… ある程度の齢と現場を重ねた人間には、すんなり通じる肝が確かにあるのだ。 僕は、これをパチンコに例えてみたw いや、乱暴なのは自覚しているがwww 僕らがやろうとしていることは… 「どの位置に釘を打ったら、玉が面白く跳ねるだろう?」 て事を楽しみながら、各々が釘を打っていく「遊び」だよw ただし、ルールはある。 1)玉がツッカエてしまうような打ち方をしてはイケナイ 2)チャッカー(当り穴)に導くルートは、確かに用意しなければならない これらを踏まえて… 「さあ!ドンドン打って行こうぜwww」 果して、彼等がこの説明の真意をどれほど呑み込めたかw ま、呑み込めなくても打っていく内に、はぜる玉を眺める内に、この作業の面白さを感じてくれたら良いんだが(照) しかし、話に絡んでピンボールを挙げる辺りが、いとうちゃんもそれなりにオッサンだよねwww 02:04 コメント(0) [コメントを書く] 2013年10月17日(木) 【素数の世界】 前作「ひとりでゴドーを待ちながら」で試みたのは、外界への扉を開くこと。 そこに現れた景色は、二人の作家が別々に用意した第一幕と第二幕にも関わらず、奇しくも一致していた。 第二段「ネエ、オジョウ」において覗き見るのは、内なる世界。 それは家族であり、恋人であり、故人であり… 個人を構成する「時間の重み」でありたい。 このシリーズをタオくんは、素数に見立てた。 「1」と「それ自身」でしか割りきれない種族、ね(汗) 無論、自身は俳優であり作家であるとして… ならば、「1」とは何を示すか? 恐らくは観客を含みつつも、もっと演劇の本質に触れる手掛かりに出逢えるかもね。 あるいは、それを確める為の「マギカ」かもしれない。 次なる素数である「3」に向けて、この舞台はどんな道標を残すのか… 面白くも難儀な提案でござるw 15:38 コメント(0) [コメントを書く] 2013年10月03日(木) 【マギカは向こう岸に】 「ねえジョウ」の骨格を用いて「ゴドーを待ちながら」の台詞を再構成し、以て「マギカ」を見出だす。 この試みの扉を開く鍵は、既に記したように「ケガレ」であるとひとまず仮定する。 では、「ケガレ」の具体的な有り様とは? これもあくまで仮定の域に過ぎないが… 「非現在」と決め打ってみる。 舞台上に出現するのは、過去かもしれないし、未来かもしれない。 しかし、確かなリアルでありたい。 だから「重い」が必要なのだ。 まずは身体、そして情念の重さ。 道具立ては無論、効果も含めて… 確かな重さを捕まえておきたい。 その為には… 俳優は、決して「演り」たがらないこと。 やるべき事だけを淡々とやり…しかし、演じない。 これが、実に難しいw 難しいけれども、この作業の向こう岸に現れるマギカにこそ、この舞台の成果がある。 向こう岸とは「客席」であり、マギカとはかつてハイデッガーが置いた「現存在」という概念である。 …と、これもひとまずの仮定www 12:29 コメント(0) [コメントを書く] 2013年09月27日(金) 【確信犯としての法事】 持論と言うほどのコダワリも無いが… 「新潟の演劇は法事である」という認識が、以前からある。 客席は皆様知った顔、いつもの雰囲気、ホームゲーム。 加えて、狭い会場と小一時間の本番… これらを打破するつもりはなく、むしろ自覚的に利用する演劇を練り上げたい。 「法事」を自覚することで、その役割がいっそう明らかになる場面もあるだろう。 法事とは、何の為にあるのか? その本質は何か? それを考えながら、自分にとっての演劇とは何か?を試行したい。 結果、錯誤に気が付くもよしw 己が人生の折々に、かくも影響する「呪」を巡らせてきた演劇という魔術。 かつて、現実の呪から解き放たれ、あれほど軽く感じた身体が現在は重苦しい。 しかし、逆に芝居は軽薄になっている。 結局のところ… 思いが足りていないのではないか? 重意思神に行き逢って、実際の重さを失ったのかもしれないw この死に体に、再び生命の重味を取り戻したいと思う。 その為の法事を執り行う腹もある。 07:27 コメント(0) [コメントを書く] 2013年08月03日(土) 【ケガレの芝居】 『Y2'DASHU』さんの公演にて… タオくんの代理として参加した「アフタートーク」であったが、存外面白かったw なんで、そういう話になったかは判然としないけれど… 多分、聡子嬢にその話をしたのが記憶に新しかったからと思うが(汗) 彼らの「偽西遊記」は、正しく「ハレ」だと感じたのである。 芝居は概ね、「ハレ」系と「ケ」系に分かれ… 「ハレ」とは、仔細を一切すっ飛ばせば、神に捧げる祭事である。 演者も、観客も… 日常を軽やかに飛び越えて、「楽しむ」ことに突き進む。 シンプルだが、だからこそ純粋な「ハレ」を実現するのは、案外難しい。 そんな話をして、座を〆た。 おかげで、馬券も当たりましたよとw 勿論、「ハレ」ばかりが芝居の役割ではない。 「ハレ」が祭であり卜占ならば、「ケ」は内省であり哲学だ。 どちらが欠けても、芝居の価値を見失うが… 必ずしも、一つの舞台で「ハレ」と「ケ」を同時に満たす必要はないと考える。 結果的に、「ハレ」も「ケ」もある演劇環境こそが健全なのだ。 しかし、どちらかに偏りたくない未必のバランス感覚が、正しく「ハレ」とか「ケ」の役割を果たす障害に… ま、なりがちw では、heroproの芝居は何になるのか? 敢えて、それを「ケガレ」と称したい。 「ケガレ」とは、「ケ」が「枯れる」事… 当たり前だった「日常」を失った者の芝居である。 果たして「ケガレ」の芝居が、何を産み出すのか? それを探るのが、まず第一義的な欲求であり… その為に集まってもらった、「喪失」の記憶を持つ役者達なのである。 22:07 コメント(0) [コメントを書く] 2013年07月29日(月) 【広島と山口の事件が語るもの】 「なにか足りない、グッと来ない…」 初稿を眺めて、演出タオくんがそう言ったわけだが… 確かに、より具体的な「現在」を分岐のひとつとしたい思いはあった。 決してミスリードではなく、それを必要とする人への本線として。 そして、案外「社会派?」のタオくんのアイディアは、広島「LINE」殺人に注目する事だった。 なるほど! 今回、間違いなく鍵となるのは「言霊」であり、それが導く事象であり、それらを載せる「人という容器の在り様」だと考える。 しかし、我々の期待?に反して… メディアやネット言論の興味は、暴力の過剰さや主犯の出自をほじくりかえす「いつもの手口」に向かい、終息つつある。 演劇的には、それでも「講談」に出来るだろうけど(汗) それは、heroproの仕事じゃないからw ならば…と考えた。 奇しくも同時期に発生した、山口「村八分」事件との共振に「神意」を見い出す事にしようか? それが、第二のマギカとなるだろう。 広島も山口も… なんだか「昭和」を思い出す、生臭い事件だ。 当たり前の事かもしれないが… どんなに技術が時を進めたつもりでも、50年やそこらでは、人間ちっとも進化しないらしい(汗) まして個人の人生で、一体いかほどの前進が期待出来ようや? しかし、それでも… 一ミリ一秒でも、確かな歩みを進めるために道標を置くのが演劇の仕事だと思いたい。 これを流行りに乗っかるなら… 「調査兵団」の心意気って事だねw 20:56 コメント(0) [コメントを書く] 2013年07月27日(土) 【情念の果てに?】 本作品において… 出演者のそれぞれに望まれるのは、確かな「情念」の感触である。 「ベケット研究」で暇を潰そうなどとは、露ほどにも思っていないのだから… 「かくあるべき」みたいな、レトルトパックの情念は要らない。 それぞれにしか持ち得ない確かな想い(呪)を、こっぱずかしいながらも、潔く提供して頂きたい。 完成したエンターテイメントとして、納め処を予め決め置くような作り方も否定したい。 むしろ… 上演に於いて、初めて出逢う観客も含めた、「他者の情念と時間の関わり」そのものを、「劇的なるもの」として掴まえたい。 演出的なバランス調整(ダメ)は、勿論あるとしてもw 他人の頭の中身や心の傷なんて、言われなきゃ判らないのが普通なんだから… 観客にも普通に解らなくて良いのだと思う。 分からそうなどと、むしろ思わない事だ。 だけど、分からないなりに… そこに本物の想いが込められていたならば? きっとマギカは現れると思う。 00:29 コメント(0) [コメントを書く] <<重要なお知らせ>>@peps!・Chip!!をご利用頂き、ありがとうございます。
w友達に教えるw [編集] 無料ホームページ作成は@peps! |